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兵法・・・孫子、呉子の兵法
ここでは、孫武〔孫子〕という人物を少し考えてみたい。
太公望は別に釣りの神様ではない。
姜 呂尚といい、姜太公と呼ばれていた。
『殷』の国は西伯侯に見出された姜太公と
西伯侯の長子である 発(周の武王)
によって、6百年以上続いた歴史を終えた。
『周』の建国とその礎を成した兵法家が姜太公=太公望である。
太公望は、〈六韜〉という六冊にも及ぶ兵法書を残した。
また、
発は全国土を71州に分け、自身の血族をそれぞれの国の王とし、治めさせた。
この時の主な侯国の名は、後の戦国時代でよく聞くことになる。
斉、魏、宋、秦、晋、趙、燕、鄭、蔡、陳、楚などで、南方にある呉、越を除く。
孫武(孫氏)の時代は太公望の時代より、5百年もあとのことである。
時は、『周』の末期、東周と呼ばれた時代を超えて『春秋戦国時代』に入り、
12の国が二百年もの戦いの年月を重ね、今は『五覇国』に集約され、
さらに呉、越の二国が加わり、弱小国家を自己のもとに隷属させようと、
ありとあらゆる権謀術数を駆使して、熾烈な暗闘をつづけていた。
(鄭飛石著小説孫氏の兵法より)
秦の策略
楚の霊公は詔書を読んで、直ちに大夫伍奢を呼んで訊ねた。
「秦王が天子の名でこんな詔書を送ってきたが、
卿はこれをどう思われるか」
伍奢は詔書を慎重に検討してから、こたえた。
「秦はこの度の会合を《宗主国に朝貢するための闘宝会》
といってはいますが、
実際は列国の諸侯を一堂に集めて、いっきに降伏にもちこもう
とする凶計であることに間違いなさそうです」
「卿は何を根拠にそういわれるのか」
「いま天下の大勢をみてみますに、国土が広闊な点においても、
また軍隊が百万をこえる点においても、秦にかなう国はございません。
それゆえ、彼らは早くから天下に君臨する野心を抱いていながらも、
ただ、晋と楚のために、それを果たせなかったのです。」
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